追悼 二十六年「群青忌」 野村秋介さんを偲ぶ

 いつか書かなくては、と思っていたこと。
 記事にされることのなかった野村秋介さんへの「取材」。
 否、取材ではなく「討論」なのだとその時の彼は言った。

(おことわり)本文中の野村さんの一人称が度々変わりますが、故人の発言を極力そのまま生かすために統一しておりません。

 

 握手をしよう。
 感謝の握手だ。

 

 降り注ぐ初夏の日差しの下で4時間以上にもわたって話を重ねた。
 その打ち切りは唐突だった。
 野村さんも私も、全身汗だくだったのに、その掌がさらさらと乾いていたことを今もはっきりと覚えている。

 

 そこから束の間、私の記憶は鮮明だ。
 お互いに背を向けて歩き始めて間もなく、私の背中から大きな声が聞こえた。

 

 オォーイ!

 

 振り返ると、両の手で口のまわりを覆って呼びかける野村さんがいた。
 私が驚いて小走りに駆け寄ろうとすると、今度は右手の掌を軽く見せて制止した。
 それは、まるで宣誓するような身構えだった。
 野村秋介さんはそのままの姿で、人目を憚らずよく通る声を放った。

 

 君は君の道を進め。
 僕は僕の道を行く。
 お互いの道を、ただ進むぞ!

 

 

 言い終えると右手を一段高く上げ、大きく左右に振った。そして振り返って歩き出すその刹那、俯いた顔は少し照れくさそうな笑顔だったように思い返す。
 今でもふとした時に思い起こす光景だ。
 この芝居がかった言動には、歴とした「理由」があったのだが、それは後述としたい。

 

 私が初めて野村さんと出会ったのは、1993年初夏のことだ。
 そう。亡くなった年に初めて出会った。その出会いからわずか3ヵ月後、野村さんは「皇尊弥栄」を三唱後に自ら命を絶った。

 

 亡くなる前年、野村さんは風の会の代表として参院選を戦って敗れた。
 当時ほんのひよっこ記者だった私は、恥ずかしながらこの選挙で彼のことを認識した。

 

 その翌夏に行われた衆院銀選挙。野村さんは某候補者の応援演説をする予定で「久屋大通公園」(名古屋市中区・テレビ塔下)に姿を現した。
 私が彼と最初に出会ったのはその時だった。

 

 正直に言うと、私はこの取材にあまり乗り気ではなかった。
 彼と会うまでの経緯からして訝しく感じるところがあった。
 当時、私が最も多くの仕事をした媒体の編集者からの一本の電話。
「本当は自分で行くはずだったが、抜けられない用事ができた。野村秋介さんに君のことを紹介しておいたから行ってくれ」(編集者)
「取材の内容や方向性は・・・」(私)
「方向性はないが、選挙期間中なので今は記事としては取り上げにくい。あなたのことは野村さんによく頼んでおいた。まあ、色々と勉強になるから学ばせてもらいなさい」(編集者)
 というような、不明瞭かつ強引なアポイントによってセッティングが成されていた。

 

 確かに選挙期間中であるのだから、一人の泡沫候補を記事として取り上げるのは難しい。
 そこに応援演説に駆けつける新右翼の旗手であり、いわゆる「虱の会問題」で渦中にあった彼に対して、私は何についてどのように取材すれば良いのか。
 考えがまとまらぬままその当日、わたしは指定された時間の30分ほど前に演説の行われる場所に出向いたのだった。

 

 候補者は公園内に乗り上げた選挙カーの上で既に演説を開始していた。
 50人程度の人々が選挙カーの前に陣取って演説に聞き入り、時に盛大に拍手を送っている。
 そんな様子を同じ公園内で少し遠巻きに眺めるのが通行人である一般の聴衆だ。
 場所が場所だけに、聴衆は二百人以上になっていた。

 

 わたしは選挙カーのまわりに近づき、腕章をつけて形ばかりの撮影を行った。
 使われる予定がなくとも「取材者」としての体を保ちたかったからだ。
 選挙カー前の群集の最後尾で腕組みをしつつその様子を眺め、この一団の中に野村さんの姿を探す。
 見つからないなと思っていると、真後ろから声をかけられた。

 

 さて、あなたかな。
 はじめまして、野村です。

 

 私が名刺を差し出すと「聞きしに勝る若さだね」と言って少しだけ笑った。
 そして選挙カー壇上の候補者に向かって、両腕で大きく「×」を作って演説をキャンセルする旨を伝えた。

 

 壇上の候補者はマイクを通して、野村さんの演説が中止になったことを陣営スタッフや衆目に伝えた。
 その理由は「高熱によって声がうまく出ない」と説明して「それでも駆けつけてくださったことに感謝します」と一礼して野村さんへの注目を促した。

 

 野村さんも丁寧なおじぎを返して、しかし演説をよそに公園の隅へと移動した。
 私たちは二人きりでベンチに座った。

 

 午前中に降った雨が正午には晴天となり、初夏の日差しを帯びてコンクリートの公園は尋常ではないほど蒸していた。
 私はまず体調について訊ねた。

 

 気にしないでください。
 方便というやつ。今日この場では私が出ないほうが良いと思ったんだよね。
 本当に少し喉の調子が悪いけどね。
 しかし本当に、あなたはそこらの学生より若く見える。
 いや失礼。気を悪くしないでください。若さには良いことしかないから。
 
 さて、あなたは右翼だとか民族派というのをどのように捕らえていますか?
 

 

 いきなりの直球に、私はたじろいだ。
「あなたは何者か」
 と聞かれたように感じられた。

 

 戸惑いながらも、当時の私なりに精一杯に自分の考えを述べたと思う。
 思想的に右にも左にもないこと(今でも自分でそう思っている)や、日米安保条約を議論することは時期を問わずに常に必要である私意を述べた。

 

 

 話しながら、どうにも私は周囲の目が気になった。
 目の前に立つ人物は様々な意味で「有名人」だ。
 その人に向かって思想的に右だの左だの戦後体制だのと意見を述べる若者という図は、どうにも居心地が悪かった。

 

 不勉強で申し訳ありません、などと手早く結んで「暑いですからカフェにでも入りませんか」と促した。
 実は予め近くのホテルのラウンジにある個室席を予約していたのだ。
 しかし、野村さんは周囲を見渡しながら言った。

 

 よかったら、もう少しこのままこの場所でどうですか。
 少し暑いけど、雨上がりの済んだ空の下で討論するなんて気持ちいいじゃない。
 ちょっとそこで飲み物を買ってくる。

 

 

 いい終わらないうちに、もう小走りに自動販売機に向かっていた。
 ちょっとした違和感を覚えたのはこの時だった。彼は一番近くにある自動販売機の前を通り過ぎて、そこから100メートルも離れた別の自販機に向かったのだ。
 なにやら周囲を見渡すような仕草も見受けられた。
 そんなちょっとした引っかかりを覚えながらも、自分が行くべき場面で野村さんを走らせてしまっていることに大きな申し訳なさが先に立った。

 

 また同時に野村さんの言動を振り返ってもいた。
 彼は「討論」と言った。
 私は先述のような流れで、記者として「取材」のつもりで会いに行ったものの、記事にならない取材ということもあって少し立ち位置が定まらずにいた。
 それも見透かした上で私のポジションを決めてくれたのだろう。

 討論。

 この若輩者に対して、個人と個人として意見を交わすというスタンスで臨んでくださった。
 私は迷いが晴れた心持ちで野村さんと相対することができた。
 今にして思えば、これも彼の配慮に違いない。

 

 ペットボトルのサイダーだったと思う。
 野村さんは戻ってくると一本を私に渡して自分も旨そうに飲んだ。

 

 大丈夫、もっと自由に思っていることを話して。
 そうしないと僕に伝わらない。
 言葉にすると違ってしまう思いもこうして相対していれば通じる。
 一期一会。
 うん、そう一期一会。

  

 

 私は野村さんが最初から踏み込んできてくれたおかげで、心のうちにある疑義を素直に問うことができた。
 まず最初に、わたしが知りたかったこと。
「野村さんが望む世の中というのはどういうものですか」
 少し顎に手をやってから、野村さんは言葉を捜すように語り始めた。

 

 世の中、か。
 その質問の答えは持ち合わせていないかもしれない。
 人の世界は人が作るもので個人が作るものではないはずだからね。
 俺は俺が正しいと思うことをやる。
 他の誰かはその誰かが正しいと思うことをやる。
 時にそれがぶつかるのは必然だと思うね。
 だけど、よく考えてくれ。
 今の日本人は、本当に自分が正しいと思うことを個人個人がしているだろうか。
 ぶつけあうことで実りがあるほど正しい意見を述べあっているだろうか。

 あなたはどうだろう。
 自分の意見を、真に正しいのだという信念をもって発言しているか。
 あなたは自分の書いた記事に責任を持っている?
 編集が手を加えることは確かにあるけれど、その前段階ではあなたはしかと正しいことを発信している?

  

 時折、わたしの意見を求めて、確認し合いながら話は進んでゆく。
「自分の意見を、真に正しいのだという信念をもっているか」
 という問いに対して、
「私は現時点で正しいと思ったことを言っているつもりです。記事も同じです。結果的に思ったことと違うことが記事になることはあるけれど、私はその部分を編集者に伝えています。編集者も書き換えた意図を私にぶつける。もちろん納得いく説明ばかりではないけれど、意見をぶつけあっているという点では正常な関係性にあると思っています。それに編集の意見を聞いて私の意見が変わることも時々ですがあります」
 などと応えると「うん。うん」とテンポの良い相槌をしながらこう挟んだ。

 

 自分の意見を変えることができるのは若者の特権かもしれない。
 いやそうではないな、あなたの個性かもしれない。
 間違ったことを間違ったのだと認めることや、謝罪できることは実はすごいことだと思うよ。
 僕には出来ないときもある、あった。
 どうしても出来ない部分があって、その存在を消すことはできない。
 俺は意地というものが強い人間でね。
 意固地なんだ。
 でも、それが僕だ。
 僕はね、あなたが羨ましいよ。
 まだまだ自分を追及する時間とたくさんの選択肢があるのだから。

 

 そして私の「野村さんが望む世の中」との問いかけにはこう続けた。

 

 責任というものは、重いね。
 口から出た言葉はその場限りで消えるものではない。
 一度、信念をもって口から出た言葉は消えない。
 自分からも消えないし、言葉を受け止める側も同じだろう。
 心に響いて受け止めた言葉は永遠に残ってしまう。
 しかし、それが当然でなければいけないし、そうでなかったら無責任だと思うんだよね。
 だけど、残念ながら、その無責任の積み重ねが今の日本にあると思う。
 ああ。こうして口にすると平凡なものだ。
 無責任から積み上がった今を認められない、ということになるのか。
 うん、平凡な言葉ではあるけれど、俺の根底にあるのはそうだ。
 俺はね、責任ある人々の集合体こそが日本であってほしいと願っている。
 誰もが己が信じる意見を口にして、衝突して、より正しい答えを選んでいく。
 そういう世の中になってほしい。
 それが出来ていない今の日本に本当に歯がゆく思う。

 

 話はそれから国政、国家間摩擦、安保、差別問題、ヤクザから家族の話題にまで及んだ。
 特に印象的だった事柄について野村秋介の言葉を記したい。
 まず、家族について話が至った時だった。
 それは「あなたの両親はご健在ですか」という問いからはじまった。

 

 

 そうですか、息災でよかった。
 あなたを見ていればわかるが、あなたは両親に恵まれたのだと思う。

 どうか親を大切にして、もっとたくさんの話をしてください。
 あなたも今度、俺のように自分の足元が揺らぐような事に直面するかもしれない。
 きっと誰しもあるだろう。
 そうした時に両親が自分にしてくれたことや、しようとしてくれたことを思い出してください。
 慮ってください。
 親は子を大切に育てるだけでなく、正しい人に育てようとするんだよね。
 直接的なことだけでなく間接的にも様々なことを伝えようとする。
 うまく伝わることも、伝わらないこともあるけれど、子どもが親の想いを汲むことで理解できることも多いはずだ。
 親の背中を見て育ってください。
 僕もそうだよ。
 未だに父親にはとてもかなわないし頭が下がる思いがある。
 今でも学ぶことがあるし、気が付かないだけで大事なことを見落としているかもしれない。
 あなたや俺のように親に恵まれた人は、親が人生の師であって然るべきだと思うんだ。
 そういう気持ちで親と向き合っていってください。

 

 また「新右翼の旗手」と呼ばれることに触れてはこう語った。

 

 僕は僕の言いたいことを言ってやりたいようにやっているだけだよね。
 それは僕の信念に基づく言葉であって行動だった。
 誰に何と思われようが自分が正しいと信じたことをやるだけ。
 それを見た他人が、何と呼ぼうが、どこに分類しようが、どんな評価をしようが、あまり興味はない。
 もっと正直に言えば、自分の起こした言動そのものではなく、そこから波及した影響には興味がない。
 自分の言動には責任を持つ。
 でもそこから波及した現象についてまでは関わっていられないよね。
 俺は俺の言葉と行動のケツを拭くだけで精一杯ってこと。
 こう言ってしまうと少し無責任だったかもしれないね。
 でも、そういう風にやってきた。
 人からどう見られようが己に恥じることは無いと思っているよ。

 

 差別問題については特に熱が篭ったように思う。

 

 自分のことを棚に上げて言うわけではないけれど、あなたに対しては、あなたの世代に対しては、こう言いたい。
 はっきりと言うけど、差別というのは人の怠け、怠慢があるから起きることだよね。
 よく知らないものに対して「あの国はダメだ」「あの人種はダメだ」「あの宗教はダメだ」とやるのが差別。
「私はあなたが嫌いだ」というのは差別ではない。
 それは人としての、個人的な感情だ。
 少なくとも、感情を持てるほどには相手のことを知るべきだと思う。
 その上で好きも嫌いも個人の感情であれば堂々と述べればいい。
 怠慢にならずによく知ることが入り口にならないといけない。
 そして考えなくてはいけないのが、個人の感想の集合ができたときのことだ。

 例えるならば、このコーラ。
 コーラが嫌いな人が「わたしこれ嫌い」と言うのは自由だろう。
 嫌いな人が集まって、嫌い嫌いの大合唱をしたらこれは差別になるのだろうか。
 もっと多くの人が集まって、国単位で嫌いとなったらどうなるのだろうか。
 世界の大多数がこれを嫌いと言ったらどうなるのだろうか。
 好きや嫌いを語る人が集まることで、単純な好き嫌いが差別になるのか、ならないのか。
 どの単位から差別で、どの単位までは個人の好き嫌いなのか。
 その線を引くのはあなたたちの世代が、あなたたちの世代の議論の中で決めていくことだね。
 俺はね、嫌いなものは嫌いだと言いたいから言ってきた。
 言うだけで、言いっぱなしで、というのはダメだね。
 口から出たことに対しては責任を取る。
 そういうことは、人として大前提になる話だと思うけどね。

 

 午後一番からベンチに座り込んで話をはじめたのに、話が尽きることはなく、日が傾くまでコロコロと議題の変わる「討論」は続いた。
 僅かばかり私が意見することに対してはさらに造詣を深めるための事例を示したり、腑に落ちる反論をして頂いたり、私はいつの間にか時間を忘れて野村さんと話し続けていた。
 飲み物のおかわりを買いに行く道すがらも、トイレに用を足しにいく時でも、惜しんで話し続けた。

 

 質問した事柄だけでなく、私が社会に感じる漠然たる不信感についてでさえも、彼は明瞭な意見をくれた。
 ただし確固たる一線を引いている人でもあった。

 

 
 それはわからん。
 あなたが決めることで俺が意見することではない。
 
 あなたが感じたことや思ったことの中にしか答えはない。
 選択肢は自分の中にしかない。

 

 例えが正しいかどうかわからないが「討論はするが相談には乗らない」というスタイルだった。
 自分のことは自分で決めろ、という信条が感じられた。
 少なくとも私に対してはそうであった。
 彼が「討論」という言葉を用いた理由はそこにもあったのだと思い返される。

 

 途中、彼はよく青い空を見上げた。
 建ち並ぶビルやデパートの狭間に広がる空を、ひときわ穏やかな遠い眼差しで眺めながら、現し世の不条理を時に語気を強めて語るのだ。
 私はその様子を幾度と無く目の当たりにして、大変失礼なことであるが、
「この人はどこか違う次元から来たのではないか」
「あるいは精神の安定を欠いてはいまいか」
 などと半ば真剣に考えたことを告白する。
 後にも先にも、あのような穏やかな遠い目をしながら、自ら身を投じる改革を語る人を見たことがない。
 もし、この時すでに自裁が頭を擡げていたのであれば、生存本能と乖離した結末に想いを馳せていたとするならば・・・。

 

 私には、自分が荷を降ろしたいばかりに書き置くことがある。
 この「討論会」はまだ斜日が力強く注ぎ、わずかに色づく時刻になった頃、急に終止符が打たれたことだ。
 それは、それまでの流れとはまったく無関係に、唐突に切り出された。
 その時は遠い目から戻っていた。

 

 いま、将来のある若者と話をしていて、僕は少し恥じ入る気持ちを感じた。
 やらねばいかんことは、やらねばいかんのだと、はっきりと感じた。
 俺はやらねばならんことがある。
 何のことかと考えなくていい。
 俺は今ここで大事な用事を思い出したということだ。
 今日はありがとう。

 

 このやり取りは、件の編集者にも報告をしていない。
 彼が朝日新聞社内で遂げたとの一報の直後にも、再び確認の電話があったが伏した。
 ここに荷を降ろしたい。

 

 それから冒頭のように野村さんに促されて固い握手を交わした。
 その距離で彼は早口で言った。

 

 あなたはあの編集者の下でやばい橋も渡ったのかな。
 公安につけられてるよね。
 知ってた?

 

 私は指摘されたことで少し動揺したが、それとなく察知はしていた。
 だから目だけを伏せて頷いた。

 

 

 そうだよな。
 俺についてきたのが3人でそれは面も割れていて、常に2人が見え隠れするんだ。
 でもそれと別にもう2人いたんだ。
 あいつ(候補者)についてきたと思ったが、あれが去って1時間以上になるからあなただと思った。
 なに大したことじゃないさ。
 若いのに大したものではあるけどな。

 

  話しながら何度も握手した手を揺らし、私の肩をぽんぽんと叩いてくれた。
 そうして別れた後に「宣誓」の段となったのだ。

 

 君は君の道を進め。
 僕は僕の道を行く。
 お互いの道を、ただ進むぞ!

 

 大きな通る声は、もちろん私たちを見守る人にもはっきりと届いたことだろう。
 彼と私とは出会ってから一度も彼らの前から姿を隠すことなく、白昼の公園で堂々と討論をし、そして終いには今後の道が交わることなく別れたのだと印象付けた。
 これら全ては野村秋介さんの顧慮であった。

 

 記事にする予定のない取材。
 それを知りつつ長時間の「討論」で応えてくれたこと。
 彼の死を知ったときも、編集者に改めて顛末を伏したときも、それでもいつかどこかで書こうと心に決めていた。

 

 あの濃密な時間を私にくださった野村秋介さん。
 心より眠る御霊の安らかなることをお祈りいたします。